秋の陽ざしは、嬉しい
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開善寺:畳秀山開善寺は鎌倉武士建立の禅寺として伊那谷屈指の古拙
寺伝によると建武2年(1335)小笠原貞宗が大鑑禅師を請じて開山したといわれ、鎌倉幕府滅亡の混乱期に建立された。(飯田市;開善寺)
本堂の右側畑の奥に小山のように聳えている樹の下で、銀杏拾いをしている方に声をかけると、あ
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大木の根元で両手を広げてもまだ、幹は大きすぎ、届かない。(身長;152cm)
見上げていると、おじさんが入ってきて、
『この逆さ銀杏そのものが、小笠原貞宗の御墓になっている。』という。
そして、横のお墓は、『後醍醐天皇の姫と関わり合いがある』という。
この大木の下一面の落ち葉をかき集めたりと、心をつくしておられるようです。
かき集められた落ち葉は小山をなしていました。
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手作り花火でも有名な建神社の脇道を上ると、すでに先客があり、三脚を立て陽ざしが当たるのを待っています。
清内路の本道として利用されていた街道に、飯田市山本
側・
清内路の双方から、旅人の安全を願い梨野峠にかけて安置されていた33体の観音石仏
梨野峠は標高1172メートル、飯田市と清内路村の境にある峠。塁道が開設されたとき、集落を一望できるこの麓根に集め、観音山として信仰と憩いの場になってるそうです。
鐘堂脇の道は関所の間道、タイムスリップすれば、信長軍先陣団景春、森長可、水戸浪士等が足跡を刻んだところ、
公園内の石仏観音の建つ稜線沿いに帯状に植えられたドウダンツツジ、少し時期を逸しましたが、真っ赤に紅葉していました。(画像は11月13日)
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東京国際女子マラソン最後のレースを飾ったのは、尾崎好美選手だった。
このコースの「最後の坂」について、大会前の記者会見で
「富士山みたいな坂だと想像していたが、試走してみて、こんなものかと思えた」
と語っていたそうです。
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尾崎選手の指導者山下監督は「心理的面も大きく、本当にきついのは上りの数百メートル」と。(朝日新聞より)
03年記録を狙って飛ばし、最後は歩くように坂を登って2位になった高橋尚子ことQちゃんは、だんだん失速していく先頭の渋井選手の姿に、
「今追い上げられている状況を理解していないのではないか、伝えてあげて欲しい!」
と、
追い抜かれていく渋井選手の姿に
「胸が苦しい!」
と、やや声高に語っていた。
♪ まわるまわるよ 時代はまわる
別れと出会いをくり返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれかわって歩き出すよ ( [時代] 中島みゆき ) ♪
元気よく力強く力走する渋井選手に「最後のレースに相応しいランナー!」と、期待も込め語っていたQちゃんの「胸が苦しい!」のコメントに、ますます、これからの生き方が気にかかる人だなあと思いました。
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153号線を走ると全山紅葉し、あの山のどれかの木のそばに行ってみたくなります。(11月7日の画像)
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赤い橋げたの門原大橋(春の門原大橋)も秋景色にすっかりおさまっています。
河鹿の湯に下りると、
「この前はまずかったけど、今日はおいしかったよ!」
常連らしい近所のおばあさんがお構いなく大声で話しています。
お昼にいただいたラーメン、残念ながらいまいちでした。
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飯田市山本二ツ山の堂坂稲荷社鳥居横のハナノキは、午後のやわらかな陽ざしを浴び、オレンジ色に紅葉していました。(11月7日の画像)
樹高約;20M、梗高幹周り;2Mほどカエデ科の希少種、長野、岐阜、愛知各県の湿地帯などにしか自生しない。長野県版レッドデータブックの絶滅危惧種に指定されている(南信州より)
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静まり返っている横の赤い鳥居の奥の階段も林の中までも、あたり一面、幸せ色の落ち葉が降り積もっていますが、怖くもあり踏み込めない、
二ツ山の堂坂稲荷社鳥居横のハナノキは、今年見た最高の紅葉、
離れがたいほど、わくわくしました。
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a八幡の八幡さまは、誉田別尊(応神天皇)・息長足姫命(神功皇后 応神天皇の母親)・武内宿称の三神を祭神し、外からは見えませんが、主神の誉田別尊座像は檜材の寄木造り、丈約1mの彩色の像だそうです。
八幡神(はちまんしん、やはたのかみ)は、日本独自で信仰される神、元々は宇佐地方一円にいた大神氏の氏神であったと考えられ、欽明天皇の時代(539年 - 571年)に大神比義という者によって祀られたと伝えられる。(Wikipediaより)
鳩ヶ嶺八幡宮の創建は鎌倉時代初期、ちょうど“源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。”時期と重なります。
そして、その後当地方を統治した歴代豪族の崇拝を受けた神社だそうです。
“八幡神は、農耕神あるいは海の神とされるが、柳田國男は鍛冶の神ではないかと考察している”。
毛が沢を挟んで同じ小笠原一族同士激しく争った鈴岡城と松尾城、更に上の本殿に必勝を祈願したことでしょう。
また、“太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられ、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。”出征した若者の無事の帰還を願って、多くの人々がこの階段を駆け上がったことでしょう。
よく神社仏閣を訪れると大きな戦争慰霊碑があったりしますが、その地域の氏神様を祭っているところからかと、今回納得しました。。
この八幡さまは、地形を利用し2か所から水が流れ落ち、地面を打つ水の音が境内全体に響く、
とても民家の密集した中の神社とは思えない静けさ、
治部坂峠もそうですが、全身が洗われるような静寂感が漂っていました。(
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